SACO合意と在日米軍再編について
SACO(沖縄に関する特別行動委員会)設置の経緯
1995年9月4日、沖縄駐留3米兵による女子児童暴行事件をきっかけとして米軍および日本政府に対する沖縄県民の不満が爆発し、10月に開催された県民総決起大会には約8万5千人もの住民が参加しました。これに続く沖縄県知事の駐留軍用地特措法に基づく署名・捺印を受け、11月には沖縄の米軍基地問題を討議する場として、日米間にSACO(沖縄に関する特別移動行動委員会)が設置されました。(当時の橋本龍太郎総理とモンデール駐日大使が合意後、クリントン大統領と締結)
SACOにおける主要な課題は、左図のように沖縄本島及び周辺に存在する米軍基地の整理統合と在日米軍基地位協定の運用の改善でした。
【←画像クリックで拡大】 沖縄県よりお借りしました
また、政府と沖縄県の間にも同月11月に、米軍基地問題を協議するための「沖縄米軍基地問題協議会」(協議会の構成員は、外務大臣、内閣官房長官、防衛庁長官及び沖縄県知事)が設置されました。この協議会の主目的は、政府が県の意向を汲み取り、SACOにおける協議をそれに反映させることにありました。
SACOを設置した後、約1年をかけ1996年12月2日に、いわゆる
「SACO最終報告」がとりまとめられました。
SACO最終報告の概要
SACO最終報告の内容は、土地の返還・訓練や運用方法の調整・騒音軽減・運用改善です。
土地の返還においては、普天間基地、安波訓練場、ギンバル訓練場、楚辺通信署、読谷補助飛行場、那覇港湾施設を全部返還とし、北部訓練場、キャンプ桑江、瀬名波通信施設、牧港補給地区を一部返還としました。(詳細下表)
宜野湾市におけるSACO最終報告の進捗状況
SACO最終報告では、普天間飛行場の全面返還が決定されましたが、なぜ実現しないのでしょうか?そこには非常に厳しい条件が付随していたからなのです。
■沖縄本島東海岸沖(辺野古)に長さ1,300mの滑走路及び司令部や整備場等の支援施設を備えた海上施設を建設し、
■普天間飛行場のヘリコプター部隊の移駐を初め、12機ある空中給油機の岩国飛行場への移駐し、
■更には残りの航空機や後方支援部隊については嘉手納飛行場に追加施設を整備し移駐する、というものです。
最終報告は、「今後5年~7年以内」つまり、2001年~2003年までに代替施設を完成させて普天間飛行場を返還するといっても、基地機能が縮小されるわけではなく、最終報告でも「普天間飛行場の重要な機能及び能力は今後も維持する」ことを強調しています。