普天間基地の歴史・成り立ち
普天間基地の建設地は広大なサトウキビ畑が広がっていました
普天間基地建設前は、いくつかの泉があり、それらを水源に畑作が営まれており、なだらかな小山が続いている丘陵地で広大なサトウキビ畑やサツマイモ畑が広がる村でした。
また、本島南部と北部を結ぶ位置にあるため、交通の要衝を占めており、道沿いには松並木が続いていたようです。
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この昔の写真は、1944年(昭和19年)9月に米軍が上陸用の作戦地図をつくるために撮影した写真だそうです。民家もたくさんありますが、広大な畑が広がっている様子がわかります。
1945年(昭和20年)に普天間飛行場が整備されました
1945年(昭和20年)の沖縄戦の最中、宜野湾一体が米軍の支配下に置かれると、米陸軍工兵隊が民間地を強制的に取り上げ(接収)、米軍上陸と同時に普天間飛行場建設が始められられました。
短期間に普天間飛行場が整備されました。このときに2,400mの滑走路が建設されました。
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その後の普天間飛行場の歴史と滑走路の延長
1953年(昭和28年)には、滑走路が2,400mから2,700mに延長され、ナイキミサイルが配備されました。(ナイキ基地建設)
1960年(昭和35年)には、施設管理権が「空軍」から「海兵隊」に移管され、「海兵隊航空基地」として使用が開始されました。
1969年(昭和44年)には、第一開閉航空団の第36海兵航空群のホームベースとなりました。現在では2,800mの滑走路を有し、在日米軍基地でも山口県岩国市にある岩国基地(岩国飛行場)と並ぶ有数のヘリコプター基地となっています。
1972年(昭和45年)に沖縄返還が果たされた際に、「普天間海兵隊飛行場」、「普天間陸軍補助施設」、「普天間海兵隊飛行場通信所」が統合され、普天間飛行場として日本政府がアメリカに提供し、現在に至っています。
普天間飛行場の現在の様子
この写真は、2005年当時の普天間基地上空の写真です。報道などで、私たちがよく目にする写真ですが、最初にこの写真を見ると、あたかも現在あるような住民生活を押しのけて普天間飛行場が建設されたような錯覚に陥りますが、1944年の写真からの変遷を見れば、(強制接収により多くの市民が立ち退きを余儀なくされた結果ですが)むしろ、立ち退きを余儀なくされた住民が、普天間飛行場の周りに徐々住み始めて集落ができ、学校や病院なども建設されてきたという歴史があることが理解できるかと思います。
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